2018-03-26 第196回国会 参議院 予算委員会 第13号
で、椎名悦三郎先生を送って、国交を中国とやっても台湾との関係を切らないと言ったけど、調印した途端に大平外務大臣が台湾との国交断絶を宣言するんですよ。だから、そういうことは時としてあることですから、よっぽどやっぱり慎重にして掛からぬというと心配があります。
で、椎名悦三郎先生を送って、国交を中国とやっても台湾との関係を切らないと言ったけど、調印した途端に大平外務大臣が台湾との国交断絶を宣言するんですよ。だから、そういうことは時としてあることですから、よっぽどやっぱり慎重にして掛からぬというと心配があります。
軍需省という役所は、椎名悦三郎という事務次官が、マッカーサーが厚木に来る前に看板掛け替えて、商工省という名前にしましたね。この二つは立派に生き残って、今日に至っております。 結局、戦後日本は最も成功した社会主義国家だったと言われたのは、まさにこういう歴史的な背景があったわけであります。 いかがでしょうか、大臣、ちょっと御感想があったらお聞かせいただきたいと。
日韓基本条約締結当時、日本側の交渉責任者であったのは椎名悦三郎当時外務大臣でありますけれども、一九六五年の八月五日の当外務委員会で、条約の成立後、両国の解釈が重大な点において違うというような場合には、その時点における両国の当局者がこの問題の正当な解釈についてまた協議するということもあるいは起こり得るという形で、この三条を明確に答弁しているわけです。 岸田大臣、この答弁、御存じでしょうか。
一九六五年、文化財及び文化協力に関する日本国と大韓民国との間の協定を締結されましたのは、当時、昭和四十年十二月十八日と記憶しておりますが、内閣総理大臣及び外務大臣におかれましては、佐藤栄作内閣総理大臣と椎名悦三郎外務大臣でいらっしゃいます。
歴代を見ると、椎名悦三郎先生、前尾繁三郎先生、宮沢喜一先生、小沢辰男先生等々、大変立派な方々がなられております。最近でも、福田康夫先生、麻生太郎先生、亡くなられましたが亀井善之先生等、大変見識のある方々がなられておりますし、まさに金庫番でありますから、そういった方々が就任されている。山本大臣もそのお一人であろうかと思います。
ここに、一九六五年の六月二十二日、当時の椎名悦三郎外務大臣、そして韓国は李東元外務部長官が交わしました日韓基本条約の交換公文がございまして、この中には、もう長々読み上げることもありませんけれども、まさに「両国間の紛争は、まず、外交上の経路を通じて解決するものとし、これにより解決することができなかつた場合は、両国政府が合意する手続に従い、調停によつて解決を図るものとする。」
そういう気合いを入れて、昔の満州国の場合には、椎名悦三郎さんとかあるいは岸信介さんというような、経済産業省の先輩のそういう革新官僚の人たちが国運をかけてフロンティアをつくった。そういった新しいビジネスモデルが戦後の日本の復興と経済成長、高度成長につながっている。
といいますのは、八七年に、私はその当時、皆さんにもなじみのあった椎名悦三郎という立派な政治家の秘書を長年務めておりまして、選挙区へ行っておりまして、選挙区は岩手でございますが、花巻から帰ってきて、どうもおかしいなと思ったのが、夜半に大吐血をいたしまして、そのまま救急車に乗せられて最寄りの救急病院へ担ぎ込まれたわけです。
小宮山重四郎君だなんだ、藤尾君だの、三原朝雄さんだのみんな理事で、一番印象に残るのは、恩給で本当に一生懸命やってくれたのは、千葉の、自民党の筆頭理事をやっておられて……「椎名悦三郎さん」と呼ぶ者あり)椎名悦三郎さんじゃないんだ。ちょっと今ど忘れをしましたが、運輸次官をおやりになっていた、また運輸政務次官を重ねてやった伊能繁次郎さん。
私自身、その後失脚されましたけれども朝総連の最高幹部の方とお会いをいたしまして、初めていわゆる北朝鮮に対する墓参、したがって受け入れの再入国の問題は、当時の外務大臣は椎名悦三郎先生、法務大臣は石井光次郎先生でございましたが、私が調整役をさせられましたので、初めて墓参をこちらが認めることにしたわけです。そのときにもう、今、柳澤さんがおっしゃった気持ちが私にもあったわけです。
かつて椎名悦三郎氏が外務大臣のときに、あれは日韓間の問題でしたでしょうか、社会党のある委員から、そもそも日本におけるアメリカ軍とは一体何なのかという質問を受けましたときに、椎名さんが番犬と発言し、社会党の委員から注意されまして、番犬様と言い直して一同高笑して、非常にウイッティーに事が運ばれた。その番犬様という言葉を受けまして、私は番犬様が狂犬になったのでは困ったことだということを申しました。
○国務大臣(竹下登君) 特許庁のいわゆる人員の問題でございますが、これは何年でございましたか、特許庁長官が十六年組の人でございますから、今若杉さんが二十八年ですから十二年ぐらい前だったと思いますが、あの行管長官が木村武雄さん、通産大臣が椎名悦三郎さん、そのときに何かの関係で間へ入らせられまして、片や百何十人、片やで、結局、足して二で割って百人にするとなんですから、二けたというので九十九人ということを
したがって、例えば岸信介先生とか椎名悦三郎先生とかそういう人は大体四十歳と四十一歳で事務次官になっていらっしゃる。あのころから見るいわば平均寿命ですか、そういうものの伸び方からいたしますと、やはり徐々にそういう方向に来ておるということにはなるではないかというふうに考えております。
日本国外務大臣椎名悦三郎より大韓民国外務部長官李東元閣下に手紙が出て、それに対してまた李東元外務部長官から椎名悦三郎外務大臣あての文書が来ております。「両国政府は、別段の合意がある場合を除くほか、両国間の紛争は、まず、外交上の経路を通じて解決するものとし、これにより解決することができなかった場合は、両国政府が合意する手続に従い、調停によって解決を図るものとする。」
○川本委員 いわゆる政府の方針というのは先ほど来いろいろ言っておられますけれども、昭和四十二年六月二十七日に当時の自由民主党幹事長福田赳夫、自由民主党総務会長椎名悦三郎、自由民主党政務調査会長西村直己、総理府総務長官塚原俊郎、大蔵大臣水田三喜男、この五名による合意文書が御承知のとおりあるわけです。
○国務大臣(鈴木善幸君) 確かに、私はそのとき自由民主党の総務会長でございました、総理官邸の総理の執務室に当時の副総裁であられた椎名悦三郎さん、それから幹事長の二階堂進君、総務会長の私、それから政調会長は山中君であったと思います。
昭和二十年、たとえば岸信介さんとか椎名悦三郎さんとかああいうクラスは皆四十そこそこで次官になっているわけですね。それでいま大体、私は大正十三年生まれですが、大蔵省で大正十三年生まれといえば事務次官であり主税局長であり主計局長であり、皆……、ちょうど私もいい年になったなということを実は、感じたわけですが。したがって、五十五、六にまで上がってきましたから、三十五年で十五歳上がっているんです。
――――――――――――― 本日の会議に付した案件 閉会中審査に関する件 小型和船の船舶検査免除に関する請願(足立篤 郎君紹介)(第三三七六号)の取下げの件 請 願 一 ハイヤー・タクシーの安全輸送確保等 に関する請願(山本政弘君紹介)(第二 七一号) 二 地方陸上公共交通維持整備の促進に関 する請願(椎名悦三郎君紹介)(第七一 一号)
国立療養所邑久光明園及び長島愛生園所 在の長島、本土間架橋に関する請願(木 原実君紹介)(第三九二号) 四 公営住宅法の改正に関する請願(瀬崎博 義君紹介)(第三九三号) 五 名古屋環状二号線への国土開発幹線自動 車道建設法の適用反対等に関する請願 (田中美智子君紹介)(第三九四号) 六 過疎地域対策緊急措置法の施行期間延長 等に関する請願(椎名悦三郎君紹介
――――――――――――― 本日の会議に付した案件 閉会中審査に関する件 請 願 一 米の生産調整反対及び地域農業の振興等 に関する請願(瀬野栄次郎君紹介)(第 六九八号) 二 広域農業開発事業に係る財政措置の強化 に関する請願(椎名悦三郎君紹介)(第 七〇七号) 三 加工原料乳限度数量の割り当て増加に関 する請願(椎名悦三郎君紹介)(第七〇